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范蠡 |
これを呉王闔閭の弟の夫概(ふがい)は、この状況に目をつけていた。夫概は勇猛で知られており、闔閭は内心恐れていた。今回の楚遠征でも夫概が独断専行し、楚の本陣に殴り込みをかけ、結果的には楚軍を敗走させた。夫概は野戦で勝つたびに自信をつけた。
そして、王位を狙おうと考え始めた。
夫概はひそかに戦線を離脱すると、呉の本国に帰って自立した。
ーー夫概、帰国して、王と称す
という知らせが入ると、闔閭は烈火の如く怒り、全軍を率いて、帰国した。
夫概は自信過剰で、現状の見極めが出来ていなかった。
兄闔閭の軍に一蹴された。命からがら逃げ出し、あろうことか、これまで戦った楚に亡命した。楚はかれを受け入れて、堂谿(どうけい)という土地を与えた。
闔閭は帰国後も楚に出兵したが、今回のことに懲りて自らは出陣せず、太子の夫差に指揮を執らせた。
この頃から呉の正面の敵は、楚ではなく、越に替っていた。
呉王闔閭は、楚に出陣中に空き巣狙い同然に呉に侵入した越をけっして許そうとはしなかった。
越のごとき国に隙を衝かれたことが我慢ならない。しかし、越は、名臣范蠡(はんれい)の努力によって隣国の強敵とも戦えるように成長していた。
越との国境戦争程度の小さな小競り合いはあったが、大きな衝突とはならなかった。呉王闔閭も范蠡の名を聞いてからは、無謀な戦はしかけなかった。
ところが、闔閭が即位して19年(前496年)に越王允常(いんじょう)が死に、呉はやっと越を討つ機会をもった。越王は勾践(こうせん)があとを継いだ。
闔閭は越討伐の動員令を発した。
このときも、伍子胥は
「越には范蠡がいることをお忘れなく」
と言ったが、闔閭の心の隅には、
――越、なにするものぞ。所詮は漁師上がりではないか
という侮蔑の気持ちがあった。
このとき、呉越の戦場は、檇李(すいり)というところであった。
両軍は対峙したまま、時間のみが過ぎた。
「こんなはずはない」
呉の陣営では、参謀たちが首を傾げた。
楚との戦争で実践で鍛えられているはずである。
越の都の会稽まで一気に攻め込もうと思ったのが、越軍に迎撃され、どうにも動かない形になっている。
ただし、長陣になった場合に重要になる補給線は、越の方が長く不利である。
「長引きそうじゃな」
と、勾践は眉を顰めて范蠡に言った。
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