2015年5月14日木曜日

十八史略(45) 伍子胥と呉越戦争(6)

  春秋五覇といわれるが、これはごく一般的に

  斉の桓公

  晋の文公

  楚の荘王

  呉王夫差

  越王勾践

とする説が多い。

  伍子胥は病を負いながら、右手に杖をつき、左手に勝の手を引いて、まさにへとへとになりながら、呉の城門をくぐった。     

 今の上海や蘇州のあたりが呉の国であった。

 中原諸国と違って、呉の都は城壁に囲まれていない。

町の中は川が多く、したがって橋も多い。白居易も「紅欄三百九十の橋」と詠んでいる。

伍子胥は、貧しい身なりで橋のそばで両脚を投げ出して坐っていた。橋の近くは、雨が降ると橋の下に雨宿りできるから便利である。

伍子胥が坐ったのは、呉の宮殿に最も近い橋のそばであった。

そこは、宮殿を出て、馬車に乗る場所であった。馬車が厩から連れて来られるまで、家来たちが待っていた。

伍子胥はそこに10日ほど坐って、宮殿から出てくる人物の品定めを行なっていた。お付の家来たちが、主人に声をかけるので、10日も見ていれば、それが何者であるか、見当はつく。

「やはり、公子の光(こう)が噂どおりの大人物か」

伍子胥は、そう結論を下した。この光という男は、ときの王である僚(りょう)の従兄弟であった。光はおもに呉国の軍事を見ていた。

 ある日、光がいらいらしているのを見て、

「呉という国は、人が余りすぎているのだな」と、大きめの声で言った。

馬車を待つ間、貴族や廷臣はお互いに愚痴をこぼしていた。国防大臣に相当する光も要求した兵員を貰えなかったが

「わが国は人口が少ないから仕方がないが」

と、家臣たちにこぼしていた。

そういうところで、人が余り過ぎているというのは、乞食の独り言とはいえ、聞き捨てにならないものであった。光は、乞食の側によって

「おい、乞食、今の言葉は聞き捨てにならん。どういうことだ。場合によっては、斬り捨てる」

「へい、鄭の国からこの国に来ましたが、どこも兵隊さんだらけで」と伍子胥は言った。

「なに!どこに兵隊がいるというのだ。どこにも見えはせぬではないか」

「たしかに、ここからは見えませんが、さぞかし多いだろうなと思いますもんで」

「どうして、そのように思うのだ」

「まず、都に城壁がありません。敵に攻められたら、大勢の兵で守ることになると思います」

「わが国は攻められはせぬは。常に攻めるばかりだ」

「それなら、よそに攻め込んだとき守りの兵を随分たくさんおかねばなりません。ほんとに人手の多いことで」

と言いながら、伍子胥は光の顔を見た。

 

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