2015年5月17日日曜日

十八史略(48)-伍子胥と呉越戦争(9)

古公亶父
  司馬遷は『史記』を書くにあたって、呉を諸侯の第1に据えた。呉こそ周王室の正統とみることができるからである。

周の遠祖古公亶父(ここうたんぼ)には、三人の息子がいた。長男が泰伯(たいはく)、次男が仲雍(ちゅうよう)、末子が季歴(きれき)である。季歴の子が昌(しょう)で、彼には聖人のしるしがあったという。このため、古公亶父は孫の昌に位を譲りたいと思った。そのためには、まず昌の父親の季歴に位を譲らねばならない。ところが、季歴は末子である。そのことで、古公亶父は悩んでいた。

そのことを知った泰伯と仲雍は

――われわれ二人がこの国を去れば、父上は望みどおりのことが出来る。と、二人は出奔し、南下して揚子江下流に国を作った。――これが、呉の建国伝説である。系図で示せば、次のようになる。

 

古公亶父――泰伯

         ―仲雍・・・呉王

         ―季歴―昌(文王)-武王

泰伯には子がなかったので仲雍が位をついで、これが呉王の系統になった。周が殷にとってかわって、王朝を建てたのは、昌の子の武王である。長子相続の建前に立てば呉が正統であったのである。

泰伯から数えて19代目が寿夢(じゅぼう)である。寿夢には4人の息子がいたが、末子の季札(きさつ)が最もすぐれていた。王も国民もみな季札の即位を望んだ。呉の建国説話に似てくる。しかし、末子の季札はどうしても位を譲られることを固辞した。

そこで、長男の諸樊(しょはん)があとを継いだ。

しかし、諸樊は父の望みを知っているので、どうしても季札に譲りたいと考えた。そして、その方法を思いついた。

兄弟相伝えて位を継ぐ----という決まりを作った。そうすれば、いつかは季札に王位が回ってくると思ったのだ。

伍子胥が仕えた公子光は諸樊の長子であった。だが、父が兄弟相伝の規則をつくったために諸樊のあとの王位は横滑りに諸樊の弟の余祭(よさい)にまわった。余祭は在位17年で死に、規則によって、その弟の余昧が王位についた。余昧は4年で亡くなり、やっと季札が即位できることになった。

ところが、季札はどうしても即位しようとせず、あげくは姿をくらました。さて、どうすればよいのか?

余昧は在位4年間の間、病身であったために息子の僚が補佐し、国政もされていた。そのまま、僚に引き続き国政を見させればよいではないか。国人の意見でもあった。

王位は矢印の線で継がれた。

光が不満に思うのは、当然のことであったかもしれない。

祖父寿夢のねがいは、矢印は横にいくことであり、王位が点線のように季札にいっておれば不服はない。

 
寿夢→諸樊―光

      ↓

     余祭

      ↓

余昧→僚

      ↓

     季札

なぜ、矢印は折れ曲がるのか?

季札が逃げて、どうしてもタテに伝えねばならないとすると、長兄の長子である自分のところに来るべきではないか。

光はこの思いを心の中に押し込んで、従兄弟の僚の前に臣下として跪いていた。

――もともと王位はわたしのものだ。いつか奪回してやる――

跪くたびに心の中で呟いた。

――大きな城はいずれあとで築れる。

光が伍子胥に小さな城でいいと言ったのは、いずれ王位を奪還してみせるという謎かけであった。
 
 
 

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