2015年5月25日月曜日

十八史略(56)-伍子胥と呉越戦争(17)

 闔閭(こうりょ)のあと、夫差(ふさ)が即位した。夫差は父との約束を忘れぬように、宮殿の庭先に兵士を立たせ、自分が出入りするたびに、

「夫差よ!父が越王勾践に殺されたことを忘れたのか!」と大声で叫ばせた。そして、

「いえ、けっして忘れはいたしませぬ」と答えた。

夫差もついつい忘れそうになったが、庭先の兵士の怒号で体を震わせた。

 夫差は伍子胥(ごししょ)がそばにいると体が竦む気がした。庭先の兵士が教えられたとおりの言葉を叫ぶと、伍子胥の唇が冷笑しているように思えた。

伍子胥の楚の平王に対する怨恨はじつに凄まじいものであった。16年経っても薄くならず、かれは平王の屍体を形がとどめぬほどに滅多打ちした。おっとりとした江南の夫差にはできぬことであった。夫差は伍子胥の執念をどろどろしすぎていると不快に思うこともあった。

夫差は自らの意志が弱いことを自覚しており、寝るときは薪の上で寝た。これが“臥薪”である。そうでもしないと、ついつい忘れそうになることを戒めた。伍子胥の場合は、そのようなことをせずとも16年間復讐心が弱まったり、ましてや忘れることはなかった。

夫差の場合は、生まれながらに王の子であり、父の闔閭や伍子胥のように激しい闘争心を燃やす必要もなかった。夫差はこれまで怨念の塊のような伍子胥を毛嫌いしていた。ところが、父の臨終の言葉で、かれも怨念のひとの仲間入りした。呉王夫差と伍子胥の関係がうまくいったのは、夫差が越に対する復讐に燃えた3年間であったといえる。夫差は父との約束どおりに3年目に越を破った。この復讐劇の成功は、伍子胥と伯嚭(はくひ)という楚からの亡命者をよく使ったことが大きい。

呉が着々と富国強兵の実を上げていることに越王勾践(こうせん)は焦った。

「これは呉の準備が整わないうちに制しなければ、こちらが危ない」

と先制攻撃を決意した。

これには苑蟸(はんれい)が猛烈に反対した。先制攻撃の不利も説いたが、

「これは決まったことだ」と勾践は作戦を実行した。

 越軍は最初は国境線をやすやすと突破し、呉の奥まで侵入した。ところが、これは呉軍が弱かったとか、油断をしていたのではなく、越軍を懐深く誘い込もうという作戦であった。これを越王勾践は、呉軍は弱いと解した。敵を侮っていた。一方、呉軍は復讐の念に燃えていた。

 

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