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闔閭が即位して、真っ先にやったのは、専諸の子を上卿(大臣)に取り立てることであった。
その翌日、新王の使者が伍子胥のところに迎えに来た。
呉王闔閭は伍子胥を「行人(こうじん)」に任命した。
行人は外相に相当するとも言われるが、もっと要職である。行人は王のまつりごとを補佐するわけであるが、宰相と考えていいだろう。
このとき、闔閭の叔父で、父諸樊の末弟である季札は、使者として晋に行っていた。
季札は、賢人の誉れが高い。闔閭の祖父の寿夢は、末子の季札に王位を譲ろうと考えていたが、当人が受けず、そのために王位が横に横に回されたことは前に述べた。
季札が、晋から戻ると、国人はかれの発言を固唾をのんで待ち構えた。
季札は呉の王となるべき人物であった。それを譲りに譲り、どうしても受けねばならないときには、逃げ出した。どの王も彼には一目を置き、彼を王に次ぐ席を用意した。誰が王になっても彼はつねに第2位であった。
かれの意見は重んじられた。
そのかれが、何と言うのか?
季札は、
「新しい王が祖先の廟をたやさず、民があるじを廃さず、社稷が奉じられすれば、それはわたしの君主である。わたしは誰も怨まない。死んだ僚を哀悼し、生きている闔閭に仕え、天命を待とう」
と、言った。
このとき、季札が闔閭を非難しておれば、呉の国は乱れたであろう。
闔閭は季札の話を聞いて、内心でほっとした。
楚に出征して、楚に退路を断たれた僚の二人の弟は、兄の僚が殺され、光が呉王闔閭として立ったことを聞き、全軍を率いて、楚に下った。
楚はこのふたりに領地を与えた。
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