2012年7月1日日曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(5)

かれらは、“ペントミック・ソルジャー”として世に現れ、貴重な発言をするようになっていきました。“ペントミック・ソルジャー”は、“死出の兵士”でした。クーパー自身の体は、彼が訓練に参加した1957年の原発実験から11年目に、白血病の兆候を示しはじめました。それからの8年の歳月はほとんど病気との闘いに費され、1976年にソルトレイク・シティーの病院がその症例に注目した時すでに、彼の体は病魔にむしばまれ末期的段階に入っていました。

痛みは口で言えないほどの極限に達し、そのすべてに元軍曹としての力強い生命力をもって立ち向かいましたが、1977年にマスコミに向かって問題の全貌を明らかにした翌年2月、44歳の若さでこの世を去って行きました。体重90ロ近かった巨体が、半分以下の40キロ近くまで痩せていました。
クーパーは、軍部のしてきた行為を洗いざらいブチまけました。
誰もが実証して欲しかったパズルの最後の鍵“いかにして(HOW)”という第5の答は、クーパーの口からさまざまに語られました。
ポール・クーパーがパズルの答を実証するには、自分自身の“白血病死亡証明書”を最後に添付しなければなりませんでした。
葬儀の時、トランペットが吹奏されました。そのメロディーは、『地上より永遠に』で、モンゴメリー・クリフトがラッパを口に当て、双の頬に涙をつたわらせながら全部隊に聞かせました。このあと、軍人が星条旗をおろし、四つに折り畳んでナンシー未亡人に手渡そうとしましたが、彼女は、アメリカ合衆国の国旗を受け取ることを拒否しました。その拒否は、力強いものではなく、いまにも地面に崩れ折れ、泣き伏してしまいそうな、悲しみに満ちた拒絶でした。

1981年現在までの調査では、クーパーが参加した核実験(“スモーキー”と名付けられた原爆の実験)に立ち会った兵士の白血病発生率は、通常に比べて、すでに338パーセントを超えるところまで確認されてきています。さらに、彼らの子供に対するさまざまな影響も、50パーセントの高い割合で発生しています。アトミック・ソルジャー・ジュニアまで、問題が引き継がれているのが現在の姿であるわけです。
クーパーによって明らかにされてきた事実は、つぎのようなものがあります。
ネバダで行われた大気中の核実験(公表されたもの)
1951年 11
52年 8
53年 11
55年 16
56年 1
57年 26
58年 24
合計 97

ユタ大学医学部のジョゼフ・ライオン博士らが設定したB期間とは、この195158年にわたる8年間でした。ユタ州セント・ジョージの町は、ネバダの核実験場から220キロの距離にあります。ほとんど東京~名古屋に匹敵する距離である。
ネバダ大気核実験が、原爆を使ったものであって(水爆ではない)、その爆発力は、ヒロシマの13キロトン、ナガサキの23キロトンに対し、桁違いに大きいものではありません。
これに対して、1958年に南太平洋でテストされた“オーク”という水爆の破壊力は、ヒロシマ原爆の684倍でした。
わたしたちは、原爆と原発が同じものであることに気づかねばならないようです(次に続く)。

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