という条件でした。屋外シーンは、この馬が砂ぼこりを立てる中での大立ち回りとなりました。
誰もが砂ぼこりを胸に吸い込みました。
ジンギス・カンの食料は、きび、羊の肉などでした。
ジョン・ウェインがロケ中に、スノウ・キャニオンでそのガイガー・カウンターを使ってみたところ、大きな音を立てて鳴り出しました。ジョン・ウェインは、息子のマイケルに向かって、「ここには、鉱石があるぞ」と言ったといいます。
ガイガー・カウンターが教えていたのは、不運にも鉱脈ではなく、死の灰だったのです。
ガイガー・カウンターが鳴ったのは、ウランではなく、死の灰のせいでした。だから時間が立つとカウントが少しずつ下がりました。一帯に白血病が急に出始めました。最後に死んだのは一人の少年でした。彼は元気のいい奴で、賢かった。夏になると峡谷を登りおりするのが好きだったが、1959年に発熱したきり、熱が下がらなくなってしまいました。目の様子がおかしくなり、そのあと、体から出血がはじまりました。医者は2、3カ月の命だと言い、最後には父の腕の中で死んでいきました。
モニュメント・バレーとセント・ジョージの中央に位置するカナブの町も、同じ“風下”の地帯に入ります。リトル・ハリウッドと呼ばれたこの町には、ほとんどの映画人がやって来て、ウェスタン映画の全盛時代を築きあげました。それはB期間とぴったり重なる時期でもありました。
『リオ・ブラボー』のリオは、スペイン語で“川”の意味です。アメリカとメキシコの国境を成す大河、リオ・グランデ川を、メキシコ人はリオ・ブラボーと呼んでいます。この水源地が、死の灰を浴び続けてきたロッキー山脈です。
『ネバダ・スミス』のわずか4年前(1962年)の7月7日・14日・17日の3回にわたって、“リトル・フェラーリ”、“スモール・ボーイ”、再び“リトル・フェラーリ”が大気中で実験されたと記録されています。
最近の地下核実験が死の灰をまき散らさないと考えるのは、早計です。地下テストでは、ヒロシマ型の何十倍、何百倍という巨大な規模の原水爆も使われています。1980年になって、ネバダ実験場作戦事務所のマーロン・ゲイツ将軍が、ウェスタン3州の住民をはじめとする被害者の公聴会に臨んでついに証言したのは、
「これまでの地下テストで、40回にわったて死の灰が外に噴出している」
“レッド・ホット”が炸裂したのは、『ネバダ・スミス』と同じ年です。
『ネバダ・スミス』が撮影されたのは、ネバダ州ではありません。実験場“ヤッカ台地”から目と鼻の位置にあるカリフォルニア州の森林公園と峡谷が、ロケ地として使われました。ここは馬蹄の内側の危険地帯です。作戦事務所の将軍でさえ実態をつかめないほど何十回も死の灰が外に吹き出していたわけです。その中で、彼らは2ヶ月も3ヶ月も現地で撮影に明け暮れたことになります。ジョン・ウェインの時代と何ひとつ変わっていませんでした。
軍部はストームの発生を知り、わざわざその日を実験日に選んでいました。死の灰を散らし、問題をアイマイにしようとする意図がわかります。
これが、近年の核実験の常套手段になりつつあります。軍部が風下を選ぶのでなく、“死の灰”に風下を決めさせる方法です。
1970年12月の地下テスト“ベインベリー”では、300万キューリーの死の灰が噴出したといいます。
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