ジョン・ウェインらがユタ州に入ったのは、そのうちの13回が再現されていた頃でした。それが、かなり遠い所でおこなわれ、しかも、ハリウッドのスター達はそこに住むのではなく、一定の期間だけロケするための訪問でした。
この核実験シリーズを開始するちょうど前の年(1950年)に、全米のトップ・レベルの学者が集まって出した結論は、これらの愛称にあらわれているような“イージー”な感覚から出たものでした。「何だ、思うほどたいしたことはない」だったのです。
この愛称とは、ヒロシマに投下されたものが、“リトルボーイ”、ナガサキのものが、“ファットマン”、ネバダやビキニでテストされたものが、“イージー”、”シュガー”、“ヤンキー”、“アパッチ”、“チェロキー”、“ブラボー”などでした。
安全か、危険かについては、議論は白熱しました。
「危険の可能性はある。しかしそれは人間が死ぬという危険性ではない。医学的に“絶対安全”とされている量より、わずかに上回る放射線を浴びるかもしれない、という危険性にすぎない。実験は可能だ」
これが結論でした。今の日本の議論もこれに近い感じがしますが、白熱しているようには思えません。
周辺では、あちこちで放射能が正確に測定され、作業員たちの被ばく量も記録され続けました。その結果、合計被ばく量が一番大きな作業員でさえ、3レントゲン程度にすぎなかったといいます。
*ここで、レントゲンとシーベルトの換算を行ないますと、1レントゲン=10ミリシーベルトです。
胃腸をX線検査する時の被ばく量が45~50レントゲンと、桁違いに大きくなり得る事実を思えば、「まったく安心できる量である」と結論を出し、科学者がホッとしたのも無理のないところであると書かれています。
兵士たちは、危険な量を被ばくしないよう、入れ替り立ち替り、別の部隊がこの実習訓練に参加しました。
そこへ、『征服者』の一団がハリウッドから車をつらね、ユタの砂漠へ乗り込んできたのです。彼らは6月から8月にかけて快活に大スペクタクル映画を撮り終えると、トラックに60トンの砂漠の土砂を積み込んで、再びもと来た道をハリウッドめざし、埃を立てながら帰って行きました。
撮影隊がネバダに入る前年には、“サイモン”、“ハリー”、“クライマックス”と規模の大きな実験が行なわれました。死の灰が多いと汚染が大きくなることから、これらを“汚い”原爆と呼んでいます。
1953年5月19日の原爆“ハリー”はことに汚かったので、兵士たちは、これを“ダーテイー・ハリー”と呼んだそうです。
クリント・イーストウッドを使ってアクション映画『ダーティー・ハリー』を大ヒットさせたのは、ネバダで実物の“ダーティー・ハリー“が巨大なキノコ雲を吹き上げてからずっとあと、17年後のことです。
ネバダの砂漠は活発に爆音を轟かせ、20秒ほど経ってから、この震動が220キロ離れたセント・ジョージの住民の体にも感じられました。彼らの飾りない言葉によって話されるこの実験の恐怖は、さきほどのような「ネバダでは合計97発の原爆実験がおこなわれた」といった表現では、到底理解できないものでした。
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