かれは、1935年7月6日、チベット北部のアムドのタクツェルの小さな農家の、9人目の子供として生まれました。なお、生家は小農でしたが、地主に従属する小作人というわけではなかったようです。しかし、貴族階級でもありませんでした。わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培し、ヤクと牝牛の雑種を5~6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2~3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたといいます。生家はチベットならどこにでもあるありふれた民家だったといいますが、チベットでは、なかなかの資産家です。
幼名はラモ・ドンドゥプと名づけられました。これは「願いを叶えてくれる女神」という意味だそうです。男なのに女神というのが分かりません。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められており、有名な僧院クムブムで修行をしていました。
3歳の頃に、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやって来ました。お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」ことなどがありました。僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したといいます。
捜索隊は、"Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思って、クムブムにやって来ました。捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけました。
捜索隊はダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それは、ボクのだ」と言ったといいます。いくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も併せて厳密に審査した結果、3歳の時にこの子は、本物のダライ・ラマの化身で第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認められ、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられました。
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