2010年11月8日月曜日

吉村昭の『川路聖謨』(2)

 生活についても、
「日常の生活はきわめて質素であった。勘定奉行という要職にありながら、衣食住ともに粗末で、家族にも贅沢を決して許さない。

 毎朝の鍛錬で強靭になり、プチャーチンの待つ下田まで三島から一日で踏破したりする。天城峠を越えて伊豆半島を縦断したわけだが、その頃、通常の旅なら途中で二泊するのを常としていた。54歳という当時では高齢の身でありながら、脚力のすぐれた若い家臣のみを連れて下田まで半ば走って歩いたのである」とあります。驚くべき体力です。

 また、妻に対しても、当時の高級武士としては、珍しいほどです。
「かれが女性に潔癖であることが、かれの日記からうかがえる。それは滑稽なほどで、思わず頬がゆるむ。それに妻を愛すること甚だしく、まさにべた惚れである。それをつつまず日記に書いていて、まことにほほえましい」とあります。

 生活についても「かれは、入浴ぎらいだが、湯殿に入るときには必ず塩を盛った皿を持ってゆく。体を洗う時、まず睾丸を塩で丹念にもみ洗いする。それが精力の減退をふせぐ妙法と信じていて、その部分を洗わぬと気持ちが悪いのだという」。寝込む前までは、かなり精進していたようです。
「晩年はほとんど寝たきりの身でしたが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗退し、官軍が江戸に迫る。江戸城が官軍の手に落ちる直前、かれは短銃自殺をする。幕府に忠誠をちかった幕史として、自らに死を課したのである。

 私は、川路の生と死に強い魅力を感じる。それが私に、『落日の宴』を書かせたのである」と結んでいます。正直なところ、奈良などの当時、辺鄙なところにこれほどの逸材が奉行になって来たとは思いませんでした。あらためて興福寺にある記念石碑を見に行こうと思います。坂本龍馬のように華々しくはありませんが、このような実直な能吏が、いつの時代も必要に思います。

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