2010年11月14日日曜日

「しいほるとの娘」が生きた時代(1)

 これも吉村昭氏の『白い道』から引用したものです。その前に、フォン・シーボルトについて、述べておきます。

 シーボルトは、東洋研究を志し、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となります。

 その後、9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、6月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓口であった長崎の出島のオランダ商館医となりました。

 出島内において開業します。1824年には、出島の外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行いました。日本各地から多くの医者や学者が集まり講義しました。教え子の代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介・長岡謙吉(二代目海援隊隊長)らがおり、のちに、医者や学者として活躍しています。

 オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭します。1826年には将軍家斉に謁見。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保らと交友しました。

 最上徳内からは北方の地図を贈られ、高橋景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与え、見返りとして、最新の日本地図をもらいましたが、これが大事件になります。

 その間に日本女性の楠本滝との間に、楠本イネをもうけます。これが、今回のフォン・シーホルトの娘です。

 1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから大問題になり、国外追放処分となります。有名なシーボルト事件です。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定でしたが、来日できなくなりました。

 1830年、オランダに帰着します。翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託され、日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』を刊行しました。医者としても研究者としても優秀だったようです。明日以降、「ふぉん・しほるとの娘」について書きます。

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