2010年11月10日水曜日

小村寿太郎の『凛とした姿勢』(2)

 しかし、「小村は、親戚の借財をそのまま負っていたので、外交官になってからも生活は貧窮していた。廃屋同然の借家に座布団が二枚しかなく、客が二人来ると、かれは畳の上に坐らねばならず、傘もなく雨の日は濡れて歩いた。二度、外務大臣に就任した身でありながら、死ぬまで借家を転々とした。その上、家庭人として不幸で、そのような悪環境にありながら、ひたすら国のために全力をつくした」とあります。

 吉村氏は「現在の政治家が、とかく選挙の票を得ることのみに専念し、国の将来に眼をむけるのを怠っている節があるのとは対照的に、かれは自分の利益など念願になく、外交官としての凛とした姿勢をくずさなかった。
ポーツマス条約の会議場入り口で、日露全権に捧げ銃をした元アメリカ兵士の老人は、小村が短軀であったという印象などなく、むしろ毅然とした大人物にみえたという回想を持ちつづけている」
と元兵士の印象を書いています。

 また、「講和条約締結後、かれは随員に、『日米間には広大な太平洋が横たわっているが、交通機関の発達につれてその距離は短縮され、やがて隣国として武力衝突をすることになるだろう』と太平洋戦争の勃発を予言しています」。先を読む能力にも長けていたのでしょう。

 吉村氏は、最後に「かれは、藩閥とは無縁で、政党に属すこともかたく拒んだ。外交官に徹し、そして死んだ。その後、日本は、太平洋戦争の敗戦へと急傾斜してゆく。明治維新以後の偉大な外交官として、小村の写真が陸奥宗光、吉田茂の写真とともに外務省外交史料館に並んでいるが、当然のことである」と結んでいます。わたしは、3人の中では、小村が一番だと思います。

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