さらに吉村昭氏は、
「ついで太平洋航路問題だが、これもアメリカの貿易政策から生じたものであった。アメリカは、中国を綿布の重要な輸出先としていて、太平洋をへて荷を送っていた。そのうちに汽船が出現し、アメリカは太平洋を一気に横断、中国市場に綿布を送ることを企てた。そのためには石炭を補給する寄港地が必要で、日本に石炭貯蔵所をそなえた港の開港を求めたのである」。
「会議に出席したペリーは、終始、威圧的な態度で強要したが、日本側もかなり強く抵抗し、結局、捕鯨基地として箱(函)館、汽船寄港地として伊豆の下田を開港することで妥結した。
日本側が最も恐れていたのは、鎖国政策の基幹である通商要求であった。これに対して、ペリーは、あっさりと要求を撤回し、日本側を驚かせた。アメリカ側にとって、通商などどうでもよいことで、副え物という意味で持ち出しただけであった。アメリカの東洋における最大の市場は中国で、資源も乏しい日本と通商をすることはほとんど意味がないと判断していたのである」。
歴史では、この部分が強調されており、ペリーは最初から通商交渉を行って来たように教わりましたが、実際は、捕鯨の補給基地、綿花貿易の補給基地のために来航したものでした。今も、このような勘違いをしているようなことが、多々あるような気がします。
吉村氏も、「最初の出会いであるペリー来航時から、すでに日米の経済を中心とした軋轢がはじまっていたのを感じる」と書いています。
0 件のコメント:
コメントを投稿