2010年11月5日金曜日

奈良奉行の川路聖謨と奈良(1)

 奈良は、江戸時代は天領でしたので、奉行がいました。奈良奉行です。奉行所は、今の奈良女子大のある場所にありました。

 「寧府記事」は、幕末の弘化3(1846)年より嘉永4(1851)年まで奈良奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)の日記です。かれは、こまめに書き残しています。

 神鹿殺害は大罪として「大垣成敗」(興福寺周囲の大垣=築地塀を3度引き回しのち処刑すること)や「石子詰め」(罪人を生きながらに穴に入れ、小石を詰めて圧殺したという中世以前の処刑法)などの厳罰に処せられたという言い伝えがありました。奈良で観光バスに乗るとガイドがこの話を必ずします。奈良町民にとっては、鹿は厄介な代物だったようです。

 弘化3年7月、角切りのために集めた鹿一頭を誤って死なせてしまった若者の処分を興福寺がどうすべきかと奉行所に求めてきました。この時、川路は、古い典礼によって処分することはできないと返答しています。そして「大垣成敗」や「石子詰め」などは戦国時代以前の話で、歌舞伎などの物語と思っていたのに、実際に興福寺が処分を求めてきたことに驚きました。

 川路は奉行所にたくさんある鹿関係の記録を調べ、鹿を殺し大垣成敗となったのは、寛永14(1637)年4月が最後でそれ以後はおこなわれていないことが分かりました。

 弘化3年8月4日には、奉行所の門前に幕張り矢来を立て、桟敷席を設営し、鹿19頭の角切りがおこなわれました。奉行も任期中一度は見物するのが慣例になっていました。見物人もたくさん集り賑やかだった様子が記されています。現在は、雄鹿の角伐りは秋に行われています。(明日に続く)

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