2013年7月19日金曜日

山本八重(1)

 
辰戦争以後について述べてみます。川崎尚之助との離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年)旧暦12月のことです。

明治4年(1871年)、京都府の顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って、母・佐久、姪・峰(覚馬とうらの子)とともに、上洛します。覚馬の妻・うらは、上洛を拒みます。翌年、八重は兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となります。

この時、兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(187510月に婚約し、翌年1月3に結婚しました。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったといわれたりしますが、夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評されました。襄は、こういうことは一向に気にしなかったようです。

同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際には、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本というのような女性がいる」と強く非難されたりしました。これに対し八重は全く動じなかったといいます。夫婦仲はとても良く、襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「妻は見た目は美しくはありませんが、生き方がハンサムです。私は十分満足しています」と書いています。

 

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