2013年7月30日火曜日

松平容保一族(2)

 長男広大は華族に任じられ、陸軍に、七男保男は海軍に迎えられました。次男健雄は分家し、会津高田町の伊佐須美神社の宮司になりました。伊佐須美神社は、文藝春秋の目次があるページに毎号広告が必ず載せられています。なにかの縁があるのでしょうか。建雄の次男が、福島県知事松平勇雄です。

  四男恒雄は、外交官となり、その娘が、秩父宮に嫁いだ勢津子妃です。

  金融恐慌と不景気の昭和初期、秩父宮と松平勢津子姫の御婚約のニュースは、会津人を大変、沸かせました。政府内部には、「朝敵の娘を皇室に入れるとは、なんぞや」という反対意見があったようです。

全会津のひとたちは、松平家が皇室と縁戚関係になり、朝敵の汚名を一掃できる事を喜び、慶祝行事は、3日3晩繰り広げられたといいます。

会津若松市は、本来、県庁所在地になって当然のことですが、なっていません。たしか国立大学も会津若松市にはありません。やはり勝たねばなりません。敗者の美学は、スポーツだけにしておかないと、子々孫々を不幸にします。

 

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