2013年7月28日日曜日

西郷頼母(2)―西田敏行

 会津から落ち延びてからは、榎本武揚土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなりました。

明治5年(1872)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長を務めました。

明治12年(1879)、長男の吉十郎が病没したため、甥(志田貞二郎の三男)の志田四郎を養子とし、彼に柔術を教えました。四郎は成人した後、上京して講道館に入門し、柔道家として大成します。小説や映画で名高い姿三四郎は彼がモデルとされます。

明治13年(1880)、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮宮司となると、頼母は禰宜となって支えています。明治20年(1887)、日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として、政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていましたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松(現・会津若松市)に戻って来ました。

明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去しました。

 

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