2008年7月24日木曜日

「野茂英雄投手の引退」

 野茂英雄投手が、7月17日、引退を表明しました。「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強い」と答えています。日米での通算成績は、201勝155敗(日本では、78勝46敗)、1セーブ、三振を3119とっています。
 かれは、1968年(昭和43年)生まれで、8月31日で40歳になります。小・中学校時代は全くの無名選手でした。この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、トルネード投法でした。甲子園にも出ていません。高校卒業時、ノンプロの新日鐵堺へ進みました。2年目はエースとして日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献します。1989年のドラフト会議前には、どの球団から指名されても入団することを明言しました。この点もかれの男らしさを感じさせます。この対称の位置にいたのが、江川卓でしょう。53歳になるのに、監督はもとよりコーチの口もかかりません。生き方、考え方の大事さを痛感します。素質的には、江川の方がはるかに上でしょう。
 1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得しました。このくじを引いたのが、故仰木彬監督でした。これが、かれの運命を決めたともいえます。契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)でした。投球フォームを変更しないという条項が付け加えられました。仰木監督は、オリックスでのイチローの時にも、あの振り子打法を認めました。1990年、18勝をあげ、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率を獲得し、四冠となるとともに、MVP、新人王、沢村賞(パリーグの選手としては初)、ベストナインなど投手部門のタイトルを総なめにしました。チームは2位ながらMVPにも選ばれ、「旋風」を巻き起こしました。新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂ひとりです。
 1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。新人の年から4年連続最多勝利は勿論、4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は野茂のみです。1994年、複数年契約と代理人制度を希望しましたが、拒否されたため近鉄を退団して、メジャーリーグに挑戦しました。  1995年にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結びましたが、年俸は近鉄時代の1億4000万円から980万円に減りました。しかし、この年のオールスターにも選ばれ、先発で出場しました。この年は、13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得しました。日米両国で新人王を受賞したのは現在でも野茂ただ1人です。アメリカは、前年、選手会のストライキによって野球離れが起っていましたが、かれの活躍によって、球場にファンを呼び戻しました。「ノモマニア」という言葉まで生まれ、当時のクリントン大統領からは、「日本からの最大の輸出品」と称賛されました。記憶に新しいところです。“ドクターK”という異名もつけられました。
 1996年9月17日の対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。2001年には2度目のノーヒットノーランを達成しました。両リーグでのノーヒットノーランは、ノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目です。このあたりが、野茂のすばらしいところです。力は、確実に落ちていたにもかかわらず、ノーヒットノーランを達成したのです。並みの運ではありません。
 その後、南米にまで行って、野球にこだわった野茂には頭が下がります。奥さんは、どういう気持だったのでしょう。野茂は太りやすい体質なのでしょう。おなかが出て来て、投手の体では、なくなっていました。
 野茂は大リーグで878人と対戦していますが、最も多く顔を合わせたのは、762ホーマーの記録を持つバリー・ボンズで、59打席でした。45打数12安打、本塁打4本、打率.267、四球12、三振11でした。
 また、大食いは有名です。あの体型は、大食いによるものでしょう。好物は寿司で、新人時代、当時解説者だった佐々木恭介に連れられて高級すし屋に行き、一人で寿司100カンを食べて佐々木を仰天させたことがあります。
 「英雄」という名前は、父が村田英雄の大ファンであったことから付けられました。
 7月20日のTBSのサンデーモーニングで張本勲氏は、野茂のことを“一流選手ではあるが、超一流ではない”と語っていましたが、どこから見ても、超一流でしょう。野茂本人は嫌がるかも分りませんが、特別功労賞か、国民栄誉賞を贈るべきだと思います。日本の野球を世界で通用することを認識させた功績は絶大です。

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