2013年9月22日日曜日

日本に勝ったという中国の虚構

 中国共産党は国民に、共産党が日本帝国主義を打倒したと教育しています。だから、国民の反日感情を高めると共産党の人気が上がるという図式です。共産党に対する不満が高まったとき、国内矛盾を転嫁するスケープゴートとして、日本が格好のターゲットとなっています。中国共産党の主張は歴史的事実なのだろうかと産経新聞のむらいともひで記者は書いています。以下、紹介します。

 1930年代の日中戦争は日本では「支那事変」と呼ばれ、日本政府では「事変」であり、「戦争」ではないと唱えて来ました。日本にとって主敵はあくまでソ連や米英であって、中国は主戦場ではなかったのです。

 「事変」が拡大するにつれて日本軍の戦死者は増大し、「今、中国から撤退すれば、『事変』の中で戦死した10万人の日本軍兵士の命が無意味になる」という感情論に国民が同意するに至って戦争は長期化していきました。

 1926年に国民革命軍総司令に就任した蒋介石は共産党を「内憂」、日本の侵略を「外患」とみなし、まず共産党を排除した後に日本軍の侵攻に対処する「安内攘外」論を主張しました(1931年)。1935年には国民党の攻撃により共産党は豊かな沿岸部の根拠地を失い、不毛の内陸部へ逃走することになります。共産党はこの逃走を「長征」と呼んでいます。

 その後も、国民党は共産党を軍事的に圧倒していましたが、19377月に日本軍と本格的戦闘に入ると、その攻撃で国民党の組織と軍隊は大きな打撃を受けました。日本軍に対抗するため、19379月に「第二次国共合作」を成立させました。国民党の攻撃によって崩壊の危機に瀕していた共産党にとり、日本軍の侵攻は起死回生のチャンスとなりました。

 「第二次国共合作」も日本軍の侵攻を阻止できませんでした。11月に上海、12月に首都南京、38年には、徐州など華北・華中の主要都市が日本軍に占領されました。

 毛沢東は、「持久戦論」で次のように主張しました。「日本は強力な帝国主義国家で、軍事力・経済力は東洋一であり、中国は日本に速戦速勝できない。しかし日本は国土が小さく、人口、資源が欠乏し、長期戦には耐えられない。したがって、敵の後方で遊撃戦を展開し、敵の内部崩壊を促進すれば、中国が最後に勝利する」。

共産党によると、第一段階は3738年、第二段階は3843年、第三段階は4345年となっています。しかし、日本軍は44年から45年にかけて50万人の兵力を動員し、日中戦争で最大の作戦となった「大陸打通作戦」を実行して洛陽や長沙を攻略しました。中国の戦場では45年においても日本軍は優勢でした。現実の日中戦争では第3段階は実現せず、日本軍が太平洋で対米戦争に敗北することにより、中国における戦争は終わったのです。

 日中戦争中、国民党の地方軍閥は対立抗争を繰り返し、共産党軍は地方都市を占領して日中戦争の主要な戦闘には参加せず、37年の上海戦、38年の徐州戦、武漢三鎮攻防戦にもその後の長沙戦にも、ビルマ戦線にも出ていません。

日本軍よりも強力な軍事力を持った米軍の対日戦争によって日本軍が崩壊し、日本は太平洋戦争に敗れました。毛沢東の遊撃戦ではなく日米戦争の結果によって、中国戦線でも日本軍は降伏しました。

 第二次世界大戦における日本軍の戦死者約240万人のうち、中国戦線での戦死者は約46万人といわれています。中国共産党は日中戦争後に争われた国共内戦の勝者であったわけです。国民党は、現状に不満を持つ国民の支持を失って敗者になり、共産主義という未来の理想社会の実現を掲げた共産党が、期待と支持を獲得して勝者になったというわけです。中国共産党の主張は歴史的事実とは異なる。虚構に基づく体制は民主主義には耐えられないとむらい氏は書いています。

 

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