2012年12月29日土曜日

飛鳥、そして奈良へ(8)


現在の大仏殿の大きさは、幅57.5m、奥行き50.5m、高さ49.1mで現在の大仏殿は江戸時代の再建です。創建当時の大仏殿の幅は、98mあったそうです。残念ながら世界最大の木造建築は、アメリカの飛行船の格納庫で、大仏殿ではありません。

藤原一族を抑える切り札として724年長屋王を左大臣とします。あの高市皇子の子です。しかし、729年謀反の罪に嵌められます。しかし、737年天然痘が大流行し、藤原四兄弟はあえなく死亡します。長屋王の屋敷跡には、そごうがデパートを作りましたが、倒産しました。これも長屋王の霊が祟ったのでしょうか。聖武天皇の皇后には、光明子がなりました。臣下からの初めての立后です。当時の日本の人口は、約600万人で、奴婢の成人男子は、1人稲9000束(約2700キロ、約100万円)で取引されました。
鑑真和上は、大仏殿の落慶法要の2年後の754年、平城京に入ります。最初に日本に来ようとしたのは724年冬。5回失敗。6回目にして成功。これは、井上靖の天平の甍に書かれています。東大寺に戒壇をつくり、400人に菩薩戒を授けました。唐招提寺にある鑑真和上像は、今でも瞑想の中にあるような存在感があります。仏教の遅れた日本に戒を授けるために6回も渡航されるという情熱は、どこにあったのでしょうか。何回も死ぬような目に遭いながら。この情熱は、いつの時代にも欲しいものです。

聖武天皇と光明皇后の第2皇女の孝謙天皇は、738年、21歳の時に異例の女性皇太子となり、32歳の時に聖武天皇が譲位し、46代孝徳天皇となりました。将来天皇になることが決まっていましたので、結婚も出来ず、子をもうけることも出来ませんでした。これで天武系は途絶え、天智系に移ります。758年、41歳の時に譲位、天武天皇の孫の47代淳仁天皇が即位します。
76144歳の時に道鏡の看病を受けてからおかしくなります。ひょっとすると、初めての恋かも分りません。道鏡には、膝が3本あるとも云われていました。764年淳仁に替わり、47歳で重祚し、48代称徳天皇となり、淳仁を淡路に幽閉します。また、皇太子候補の和気王を謀反の罪で配流し、道鏡を太政大臣禅師に任命、さらに766年法王に任じます。

769年、大宰府から道鏡を王位につけるべしという奏上を受け、和気清麻呂に宇佐八幡の神託を伺いに行かせます。「吾が国家、君臣は分定せり、天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ」との託宣を持ち帰ります。これに称徳は激怒し、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させ、大隅に流します。称徳は、翌770年、53歳で崩御。死亡原因は、「朝を視ざること百余日」と書かれています。遅すぎた春を楽しみすぎたのでしょうか。一説では、毒殺とも云われています。周りも持て余したものと思われます。道鏡は、あえなく下野国に流されます。

わたしは、平城京址が非常に好きです。東に若草山、西に生駒山が見えます。奈良市には、背の高い建物がありません。平城京址に横たわりますと、おそらく当時と変わらない視野が広がってきます。中田英寿ではありませんが、草の感触を楽しみます。1300年前の光明子の時代が想像されます。わたしには、至福の贅沢な時間です。
78150代桓武天皇が即位。784年都は長岡京に移ります。 

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