2012年12月15日土曜日

中国の近代史に影響を与えた6人の日本人(2)

昨日からの続きです。

3.松下幸之助:(1894-1989
世界的に有名な電気メーカーの松下クループの創始者であり、「経営の神様」とも言われている。中国のどこでも見られる松下電器、NationalPanasonicによって、松下幸之助は中国社会で最も早くから注目を集めた日本企業の経営者であった。1978年、鄧小平が日本を訪問した折に見学した2つの日本企業は、日産自動車と松下電器である。当時、74歳の鄧小平と83歳の松下幸之助は、大変気が合い、その後、2年の間に松下幸之助は2回中国を訪問し、松下電器は中国投資を次々と展開した。彼の経営理念と人材採用方針は、80年代の中国企業の手本となった。中国でも松下幸之助のように優秀な経営者が出てくることを期待している。

4.裕仁天皇:(1901-1989
1926年から1989年まで在位しており、日本を軍国主義にした責任者である。天皇は日本国および日本国民統合の象徴とされているが、裕仁天皇は就任した後、側近の支持で段々政治の主導権を握っていった。近年、新しく発見された史料によると、中国侵略戦争の間、裕仁は一部の戦略政策に参加し、戦争にも重要な責任がある。また、軍国主義言論を激励しながら民主主義を抑圧する考えがあった。しかし、元宮内庁長官富田のメモでは、A級戦犯が靖国神社で合祀されることに反対し、靖国神社を参拝するのをやめることにしたと書いてあった。裕仁本人の評価は如何であれ、戦争期間の在位天皇である彼の名前は、この侵略戦争から分けることはできない。

5.田中角栄:(1918-1993
19727月に日本の首相と自民党総裁に就任。同年9月に中国を訪問する際、誠心誠意、中国の国民に謝罪したと同時に、中日共同声明を発表し、日中国交正常化を実現した。
田中角栄と中国の関係は日本の侵略戦争から始まった。当時、建築会社に勤めていた田中は軍隊に徴集され、中国黒龍江などの地域に派遣された。19722月ニクソンが中国を訪問した直後、田中角栄は9月に中国を訪問することを決意した。当時の情勢で中国を訪問するのは、政治的にリスクが大きい時期だった。日本社会党委員長の浅沼稲次郎は中日国交正常化を主張したために、右翼に刺殺された。田中角栄も中国を訪問する直前、右翼に恐喝されたが、決意を変えなかった。田中角栄は娘に、「私が殺されても、絶対に慌てるな。この訪問の目的は、近い将来、日中両国の国民が自由に往来できるためである」と話した。

6.高倉健(1931-)
日本の有名な俳優であり、「幸福の黄色いハンカチ」、「単騎、千里を走る」、「夜叉」などの有名な映画に主演した。改革開放直後、高倉健が主演した日本映画「遥かなる山の呼び声」、「単騎、千里を走る」などは、中国で上演された。沈黙、憂鬱な男のイメージで中国ファンは魅力された。男性ファンの崇拝の対象となり、女性ファンの理想の男性になった。高倉健は、「個性派俳優」と言われている。主演した主人公の多くが一般人であるが、道徳感と個性が強いのが特徴である。高倉健が、中国で人気のある理由は、彼が東洋文化にある人情の機微をうまく表現したからかもしれない。

0 件のコメント: