2012年7月2日月曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(6)

ジョン・ウェインらがユタ州に入ったのは、そのうちの13回が再現されていた頃でした。それが、かなり遠い所でおこなわれ、しかも、ハリウッドのスター達はそこに住むのではなく、一定の期間だけロケするための訪問でした。
この核実験シリーズを開始するちょうど前の年(1950)に、全米のトップ・レベルの学者が集まって出した結論は、これらの愛称にあらわれているような“イージー”な感覚から出たものでした。「何だ、思うほどたいしたことはない」だったのです。
この愛称とは、ヒロシマに投下されたものが、“リトルボーイ”、ナガサキのものが、“ファットマン”、ネバダやビキニでテストされたものが、“イージー”、”シュガー”、“ヤンキー”、“アパッチ”、“チェロキー”、“ブラボー”などでした。

安全か、危険かについては、議論は白熱しました。
「危険の可能性はある。しかしそれは人間が死ぬという危険性ではない。医学的に“絶対安全”とされている量より、わずかに上回る放射線を浴びるかもしれない、という危険性にすぎない。実験は可能だ」
これが結論でした。今の日本の議論もこれに近い感じがしますが、白熱しているようには思えません。

周辺では、あちこちで放射能が正確に測定され、作業員たちの被ばく量も記録され続けました。その結果、合計被ばく量が一番大きな作業員でさえ、3レントゲン程度にすぎなかったといいます。
*ここで、レントゲンとシーベルトの換算を行ないますと、1レントゲン=10ミリシーベルトです。

胃腸をX線検査する時の被ばく量が45~50レントゲンと、桁違いに大きくなり得る事実を思えば、「まったく安心できる量である」と結論を出し、科学者がホッとしたのも無理のないところであると書かれています。
兵士たちは、危険な量を被ばくしないよう、入れ替り立ち替り、別の部隊がこの実習訓練に参加しました。
そこへ、『征服者』の一団がハリウッドから車をつらね、ユタの砂漠へ乗り込んできたのです。彼らは6月から8月にかけて快活に大スペクタクル映画を撮り終えると、トラックに60トンの砂漠の土砂を積み込んで、再びもと来た道をハリウッドめざし、埃を立てながら帰って行きました。

撮影隊がネバダに入る前年には、“サイモン”、“ハリー”、“クライマックス”と規模の大きな実験が行なわれました。死の灰が多いと汚染が大きくなることから、これらを“汚い”原爆と呼んでいます。
1953519日の原爆“ハリー”はことに汚かったので、兵士たちは、これを“ダーテイー・ハリー”と呼んだそうです。
クリント・イーストウッドを使ってアクション映画『ダーティー・ハリー』を大ヒットさせたのは、ネバダで実物の“ダーティー・ハリー“が巨大なキノコ雲を吹き上げてからずっとあと、17年後のことです。
ネバダの砂漠は活発に爆音を轟かせ、20秒ほど経ってから、この震動が220キロ離れたセント・ジョージの住民の体にも感じられました。彼らの飾りない言葉によって話されるこの実験の恐怖は、さきほどのような「ネバダでは合計97発の原爆実験がおこなわれた」といった表現では、到底理解できないものでした。

2012年7月1日日曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(5)

かれらは、“ペントミック・ソルジャー”として世に現れ、貴重な発言をするようになっていきました。“ペントミック・ソルジャー”は、“死出の兵士”でした。クーパー自身の体は、彼が訓練に参加した1957年の原発実験から11年目に、白血病の兆候を示しはじめました。それからの8年の歳月はほとんど病気との闘いに費され、1976年にソルトレイク・シティーの病院がその症例に注目した時すでに、彼の体は病魔にむしばまれ末期的段階に入っていました。

痛みは口で言えないほどの極限に達し、そのすべてに元軍曹としての力強い生命力をもって立ち向かいましたが、1977年にマスコミに向かって問題の全貌を明らかにした翌年2月、44歳の若さでこの世を去って行きました。体重90ロ近かった巨体が、半分以下の40キロ近くまで痩せていました。
クーパーは、軍部のしてきた行為を洗いざらいブチまけました。
誰もが実証して欲しかったパズルの最後の鍵“いかにして(HOW)”という第5の答は、クーパーの口からさまざまに語られました。
ポール・クーパーがパズルの答を実証するには、自分自身の“白血病死亡証明書”を最後に添付しなければなりませんでした。
葬儀の時、トランペットが吹奏されました。そのメロディーは、『地上より永遠に』で、モンゴメリー・クリフトがラッパを口に当て、双の頬に涙をつたわらせながら全部隊に聞かせました。このあと、軍人が星条旗をおろし、四つに折り畳んでナンシー未亡人に手渡そうとしましたが、彼女は、アメリカ合衆国の国旗を受け取ることを拒否しました。その拒否は、力強いものではなく、いまにも地面に崩れ折れ、泣き伏してしまいそうな、悲しみに満ちた拒絶でした。

1981年現在までの調査では、クーパーが参加した核実験(“スモーキー”と名付けられた原爆の実験)に立ち会った兵士の白血病発生率は、通常に比べて、すでに338パーセントを超えるところまで確認されてきています。さらに、彼らの子供に対するさまざまな影響も、50パーセントの高い割合で発生しています。アトミック・ソルジャー・ジュニアまで、問題が引き継がれているのが現在の姿であるわけです。
クーパーによって明らかにされてきた事実は、つぎのようなものがあります。
ネバダで行われた大気中の核実験(公表されたもの)
1951年 11
52年 8
53年 11
55年 16
56年 1
57年 26
58年 24
合計 97

ユタ大学医学部のジョゼフ・ライオン博士らが設定したB期間とは、この195158年にわたる8年間でした。ユタ州セント・ジョージの町は、ネバダの核実験場から220キロの距離にあります。ほとんど東京~名古屋に匹敵する距離である。
ネバダ大気核実験が、原爆を使ったものであって(水爆ではない)、その爆発力は、ヒロシマの13キロトン、ナガサキの23キロトンに対し、桁違いに大きいものではありません。
これに対して、1958年に南太平洋でテストされた“オーク”という水爆の破壊力は、ヒロシマ原爆の684倍でした。
わたしたちは、原爆と原発が同じものであることに気づかねばならないようです(次に続く)。