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越王勾践 |
子胥が死んで3年たった。
越王勾践は范蠡を呼び、「子胥亡きあと、呉には人材はいない。そろそろ兵をむけようか?」
と訊ねた。
「もうしばらくお待ちなさいませ。いまの呉は、たいへんな速度で、国力を消耗させております。遠からず好機が来るでしょう」
と、范蠡は答えた。
独り立ちおぼつかないわと死ぬ前に伍子胥がそう言ったと聞き、呉王夫差は発奮した。夫差は覇者になることに熱中した。
一種の道楽である。呉国のためではない。死んだ伍子胥にたいする意地もあった。
伍子胥が息子を託した斉の大臣鮑氏は、主君の悼公と折合いが悪く、 いつか誅殺されそうだ、それなら先手をうってやろうと、悼公を殺してしまった。
「不忠の臣である。天に代わって伐つ」
呉王夫差は礼儀に従って門外で3日つづけて哀悼の哭泣をおこなったのち、斉にむかって攻め込んだ。
斉軍は善戦して、呉軍を撃退した。
3年後、夫差は中原のまっただ中の黄池で、中原の諸侯と会盟した。この中国首長会議の議長を勤めた者が、すなわち覇者になる。
呉の始祖泰伯は、もともと周王室では長男であった。会盟の長は当然呉の当主でなければならない。
夫差はそう主張した。
これにたいして、晋の定公は、呉は子爵にすぎないが、晋は伯爵である。会盟の長は晋のあるじのほかはないと、譲らない。
実力――軍事力がものをいうのである。このため、夫差はほとんど全国の精兵を率いて北上していた。
「現在、呉は太子が留守を預かっておりますが、老人と女子供しかおりません。どうやら会稽の恥を雪ぐ時機が参ったようでございますな」
と、范蠡は越王勾践に言った。
「おう、長く待ったぞ。すぐに動員令を」
勾践は目をかがやかせた。
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