2015年6月10日水曜日

十八史略(70)-伍子胥と呉越戦争(31)

 陶朱公范蠡の墓

 范蠡は斉で海辺に耕し、実業にはげみ、数十万金の大資産家になった。斉の人たちは彼に宰相の地位についてほしいと懇願したが、彼はため息をつき、

「尊い名誉を久しく受けることは不祥である」

と言い、集めた財産をすべて知人に分け与え、陶という土地にのがれた。

 陶でも彼は実業家として、数億の資産を築いた。陶での彼は、陶朱公と自称したが、中国ではその後、富裕の形容に、「陶朱の富」という語を用いるようになった。

 古代では、一、十、百、千、万、億と、正確に十進法に従っていた。だから、億とは十万のことであった。人間の勘定能力が発達するに連れて、万と億にあいだが引き伸ばされ、十万、百万、千万から万万に至って現在の億になった。

宮仕えしては上将軍、宰相と、その位人臣をきわめ、下野してからは巨億の財産家となり、その上、西施のような美女を得たのだから、最高の人生といえる。

范蠡は実在したのではなく、架空の人物であるという説もある。いろんな人物の良いほうの事蹟が、彼の名の下に集められたという可能性はある。

呉の滅亡の六年前に孔子は死んでいる。孔子の編集したという『春秋』に呉の滅亡が記されているのはおかしい。これは、『春秋』の註釈を作った左氏が補筆したものだからである。

春秋と戦国は、晋の分裂をその境とする。

流浪の公子重耳が帰国して、超大国に育て上げた晋も、紀元前453年に、趙・韓・魏の三国に分裂した。呉の滅亡のちょうど20年後のことである。晋から分かれた三国が、周の王室から諸侯として正式に認められたのはさらに50年後の紀元前403年のことだった。春秋と戦国の境は、晋の事実上の分裂の年とする前453年説と、正式に分裂が承認された前403年説と、二説がある。

現在では、春秋と戦国と言ったわけ方よりも、奴隷制社会か封建制社会かと言った時代区分のほうが重要とされている。

 

 

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