翌年、こんどは秦が凶作になり、晋に食料購入の交渉を申し入れてきた。これに対して晋は絶好の好機到来とばかりに食料を送ると見せて兵を送った。
秦の穆(ぼく)公は、怒りに怒った。凶作の中であったが、動員令を出した。たちまち、晋軍を撃破し、晋領深く侵攻した。そして、ついに恵公を拿捕した。
穆公は恵公を斬ろうとしたが、夫人に泣きつかれて渋々釈放した。夫人は、恵公の姉だったのである。
釈放された恵公は、太子の圉(ぎょ)を人質として秦に送らねばならないことになった。
恵公治世の十三年間は、つねに流動的で安定しなかった。諸大臣のなかも国内にいる諸公子を擁立しようとする一派と人質として国外にいる太子を立てようとする一派が暗闘を続けた。まさに驪姫の怨念がとりついたような感があった。
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