2014年9月10日水曜日

十八史略(25)-「重耳と驪姫(1)」

華清池
 驪山のある地、秦の始皇帝の墓所、楊貴妃が玄宗皇帝に熱愛された華清池がある
 この地に春秋時代にひとりの美女が出た。驪姫という。晋の献公が驪戎を討って、驪姫とその妹を得たのは紀元前672年のことであった。驪戎は美人姉妹を献上することで、本領を安堵してもらった。それまでに驪姫姉妹の噂は四方に広まっていた。

時代は斉の桓公が覇者となり、諸侯の上に立っていた。桓公は有名な女好きである。覇者ともなっており、献公はこれを出し抜いて驪姫を得たことに有頂天になった。気分は爽快であった。しかし、驪姫は驪戎を踏みにじった晋を許すことは出来ぬと心に決めていた。彼女は献公に抱かれているときも常にこの恨みを心の奥にたたんで決して忘れなかった。

 献公には賈という国から正妻を迎えていたが、子はいなかった。父の死後、父の夫人で斉の桓公の娘であった斉姜を自分の夫人とした。そして一男一女をもうけていた。男の子は申生といって太子としていた。また、狄族の姉妹も娶り、姉は重耳を生み、妹は夷吾を生んだ。このあとに驪姫が現れた。驪姫にも奚斉が生まれた。紀元前665年であった。奚斉が生まれても驪姫は晋への復讐は忘れなかった。

 「いずれは、奚斉を太子にしよう」と献公は驪姫に言った。そうすると、驪姫は首を振って、

 「太子にはすでに立派な申生さまがおられます。周囲もみな、申生さまが晋の太子と認めております」

 「なんと欲のないことか」とますます彼女の魅力に負けていった。

 太子の申生はすでに壮年というべき年齢になっており、実直な太子であった。しかし、陰鬱な顔をしていた。彼の母は、祖父の夫人として斉から入嫁した。それが、祖父が亡くなると父が夫人とし、申生が生まれた。道徳上も感心できないとされていた。

献公は申生を廃立し、奚斉に国を譲りたいと考えていた。この子を国主にするためには、申生のみならず、重耳や夷吾も障害になる。

そこで献公は
 「晋国には大事な三つの要地がある。第1は先祖の宗廟のある曲沃、第2は秦との国境に近い蒲城、第3は狄と国境を接する城である。この要地は是非わが子を派遣し、安寧を得たいと思う。
曲沃には申生、蒲城には重耳、屈城には夷城に守ってもらおう」

ていよく赤ん坊のライバルを中央から追い払ったのである。

(内心、驪姫はほくそ笑んだ)

 

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