2012年5月29日火曜日

日本を救った大伴部博麻

 時は7世紀後半、三国鼎立の朝鮮半島で統一をもくろむ新羅が、唐の力を借り百済を併呑しようとしました。百済は日本に救援を要請。わが国は、阿倍比羅夫を大将に、すぐに援軍を差し向けましたが。朝鮮半島西岸の白村江で唐と新羅の連合軍に敗北を喫しました。663年のことでした。

このとき、捕虜となり長安に連行された日本兵の中に大伴部博麻という若者がいました。現在の福岡県八女市上陽町から出兵した一人でした。

その彼が捕虜生活中に日本征服をたくらむ唐の計画を耳にしました。祖国に知らせる手段はなく、万事休すかと思われましたが、博麻は自分を奴隷として売り、その金で船を調達し、同じ捕虜仲間4人を脱出させることに成功しました。

わが国も唐の遠征はあり得ると予想していましたが、そこに彼らから情報が伝えられたために国防を急ピッチで進めました。
664年には九州北辺に初めて防人が配備されました。古代史に名をとどめる水城や西日本各地の大野城などの山城も、この頃、築造されました。

異国の地に奴隷としてとどまった博麻はどうなったのでしょうか。ながらく消息不明でしたが、28年後の690年、奇跡的に帰国してきました。
当時の持統天皇はいたく感激され、異例の勅語を博麻にたまわったそうです。全文は日本書記に記録されていますが、この一節のなかに「愛国」の2文字があります。

愛国という言葉がわが国の歴史に最初に登場したのは、この博麻をたたえる持統天皇の勅語でした。
中村学園大学教授の占部賢志氏が55日の産経新聞に寄稿したものです。
大伴部博麻の記念碑が、八女市上陽町の北川内公園にあります。1863年に建立されました。

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