2011年12月28日水曜日

佐野眞一の津波と原発(33)

 木村守江と木川田一隆のコンビこそ、東電福島第一原発を誕生させて「浜通り」を“原発銀座”と改称させた立て役者でした。

佐藤善一郎知事(当時)は、木川田一隆東京電力副社長(617月社長に就任)に原発の誘致を打診しました。その一方で、福島県は近い将来、原子力が発電の中心になるとして、発電所立地調査に着手しました。その結果、大熊、双葉町にまたがる旧陸軍練習飛行場跡地を中心とする320万平方メートルが適地と確認しました。

東京電力が福島県に示した計画によると、設備投資額は最低でも1000億円、230万平方メートルの敷地に出力100万キロワットクラス建設するというもので、運転開始は10年後の見通しを示しました。

1961(昭和36)4月、同年10月 双葉町議会は原子力発電所誘致を決定しました。

貧しい地域に原発はやすやすと受けいれられていったことが、手に取るようにわかります。

原発の建設期の双葉町は、見違えるように様変わりしたといいます。上下水道の整備率や道路の舗装率は格段に向上しました。教育施設も当時の文部省の補助を受けないで、電源交付金だけで整備することができたというほどです。計り知れない恩恵を受けたことを否定する町民はいないのではないでしょうか。

電源交付金とは、昭和49(1974)6月に成立したいわゆる電源三法によってつくられた発電用施設周辺の地方公共団体に対する特別交付金のことです。

電源三法は、当時、自民党幹事長として日の出の勢いだった田中角栄が日本列島改造論の一翼を担う形で誕生させた法案でした。

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