2011年12月8日木曜日

佐野眞一の津波と原発(14)

 福島県警の通信部隊はその作業を終えて、間もなく、引き上げていきました。

 「そのとき彼らは、『国はデータを隠している。もうここにいない方がいいですよ』と、言ったそうです。

 ――えっ、それは重大な証言だ。もう少し詳しく話してください。

 「『今回の原発事故は重大で深刻だから、国は隠す。私らも撤収して帰れって命令が来たから、帰りますが、ここにはいない方がいいですよ』と言って、帰っちゃたわけ」

 ――かれらが来たのは、間違いなく12日でしたか。

 「間違いなく12日の朝だった。そしてその日の夕方には撤収命令が出たからって、帰っちゃった」

福島県第一原発の一号機で水素爆発が起きたのは、312日の午後3時半過ぎだった。浪江の牧場を借りて通信機材をセットした福島県の通信部隊は、ヘリコプターで撮影されたその爆発時の動画を通信衛星で県警本部に送りました。県警本部はその動画を解析した結果、危険と判断したから、通信部隊に撤収命令を出しました。

重大な原発事故だということは、警察はこの段階でつかんでいたのです。

 水素爆発はその後も、314日に三号機で、15日に四号機で起きています。

吉沢氏は3回目の水素爆発が起きた翌々日の317日、「もうこれでお終いだと思い、泣く泣く牛を置いてきた」といいます。

佐野氏は、浪江の牧場を離れたあと、すぐに近くの牛舎に行ってみました。牛舎のそばの田んぼには草を食んでいる白と黒のまだら模様の牛が数頭いました。みなガリガリに痩せて、道路にへたりこんだ牛もいました。

牛舎の中は、死体だらけでした。あばら骨が浮き出た死体のそばには、肩で息をしている牛もいました。その柔和な目がたまらなかった。ここは地獄だ。そう口に出たと書いています。

0 件のコメント: