2009年10月30日金曜日

「坂の上の雲」と司馬遼太郎

 NHKで約3年間に亘って、「坂の上の雲」が放映されます、第1回が11月29日(日)です。10月24日、司馬遼太郎記念館の館長である上村洋行氏の話を聞いて来ました。上村氏のお姉さんが司馬氏の奥さんで、上村氏は父親を早くに亡くしたので、司馬家に居候をしていました。
 司馬氏は、この作品を45歳から書き始めて、約4年間かかりました。その前の準備を入れると40歳代の10年間は、この作品にかかっていたことになります。なぜ、司馬氏が、この小説を書こうと思ったのか。司馬氏は正岡子規が非常に好きだったそうです。松山の武家屋敷を歩いていますと、子規がここから学校に通い、親友の真之も通っていた時代を思い浮かべました。この二人は、当時、文学を志していました。そして、東京に行くことを決めました。二人とも貧乏な下級武士の出です。薩長土肥出身が幅をきかしていた時代です。
 東京に着くと、子規は根岸の下宿に入り、真之は兄の好古のところへ、転がり込みました。好古は、授業料のいらない陸軍士官学校に入っていました。上京した真之に好古の収入では、とても真之を賄えないので、真之にも学費のいらないところを薦めます。そして、真之は海軍士官学校に入りました。しかし、これが、日本の運命を変えることになりました。海軍士官学校への入学を決めた日に、真之は子規の留守の時に根岸の下宿を訪れ、「兄(子規)を裏切った」という手紙を残して去って行きました。司馬氏はこの気分を書くことは出来ないかということで、連載が始まりました。子規は、学校の授業では、暗い性格に教えられますが、実は非常に明るく、なにごとにも前向きでした。
 子規と漱石が、近代文学、近代日本語の小説を始めたといわれていますが、子規が創始した“ホトトギス”に漱石が「吾輩は猫である」の連載を開始したのは、子規の死後、2年たってからでした。ふたりは、リアリズムを念頭におきましたが、明治の人は、リアリズムに生き、地に足がついた見方が出来ました。好古は日本の騎兵隊を創始し、コザック兵と五分以上に戦いました。真之は、水軍の戦術書を研究し、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させました。どちらも、世界が驚愕したことです。当時の陸軍を率いた大山巌や児玉源太郎も正確に現実を掴んでいました。
 ロシアのクロパトキンは、相手の3倍以上の兵力で、相手を圧倒する戦略をとります。これは、ナポレオンがとった戦い方です。それが、じりじりじりじりと奉天まで後退します。日本が勝ったように見えますが、戦争の当事者は、それどころではありません。これ以上、戦争が続くと日本は、叩き潰されます。これが分かっているために、早く講和を結ぶことを指示しました。小村寿太郎が講和条約を結んで、ポーツマスから帰国すると、暴徒に襲われました。“勝ったのに、なぜ、賠償金をもらわなかったのか”。明治維新から30年間は、特異な時代でした。リアリズムの時代でした。
 その後、日本は世界の列強と伍していくために軍備拡張に走ります。当時のイギリスの評論家に「これからの日本はどうなるか」と質問すると、はっきり「滅びるでしょう」と答えたそうです。理由は、「自分のところが強い、強いという国はない。こういう強いところはあるが、こういう弱いところがあるという比較検討がなされていない」と。こういうリアリズムがあったのは、明治維新から30年間だけだったそうです。(以後は、明日)

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