2012年11月7日水曜日

シャープへのエール(1)


 何日号か忘れましたが、週刊ポストの「現場の磁力」に山藤章一郎氏が、シャープのことを書いていました。“シャープ 雪の両国橋を超えてつくられた遺伝子”と副題をつけて書かれていました。そのまま、記します。

「いまからちょうど100年前の915日、18歳の少年・早川徳次は、この区画に間口1間半、奥行き2間の家を借り受け、土間に2台のプレス機を据えた。
貧苦の底にあえぐ環境で、2歳で養子に出された先の継母に徳次はことごとく辛く当たられた。近所に住む盲目のお婆さん、井上さんが哀れみ、錺屋の住み込みを世話してくれた。8歳だった。
錺屋は、かんざし、金具などの装飾品を作る職人の店である。
徳次は終生、盲人など障害を持つ者に福祉の力を注いだのは、井上婆さんと、奉公先の坂田さんへの報恩心が篤かったからである。

厳しい奉公暮らしだったが、のちのちまでふたりへの感謝を繰り返し口にした。
雪の日、10歳の徳次は2里の道を足袋も履かずに歩き、両国橋で足を滑らせ、橋下に落ちる。腹も減っている。製品の材料となる銅や錫が肩に食い込んでいる。このままほっぽり出して逃げようか。だが、養家は極貧のうえ、継母は底意地が悪い。どんな目に遭わされるか怖い。辛いけれど、やはり三度の飯を食わせてくれる主人の家がいい。辛抱しようと踏みとどまる(『私の考え方』(早川徳次 浪速社)。

ほぼ10年の奉公だった。腕を磨いた徳次は帯革(洋服ズボンのベルト)のバックルをつくった。
徳次の尾錠で〈徳尾錠〉。新大橋の2台のプレス機はこれを売った資金に依った。のちにシャープとなる〈早川金属工業研究所〉誕生の地である。

徳次が大八車を牽いて借り家に移ってきた15日は、明治大帝大喪儀の2日後だった。
3年後、22歳のとき、今度は〈繰り返し鉛筆〉を創案し、文具の専門店、銀座・伊東屋に日参して売り込んだ結果、横浜の貿易商から製造依頼がきた。〈シャープペンシル〉と名づけた〈鉛筆〉は、欧州市場からの注文で増産を重ねた。

だが徳次、29歳の大正12年、関東大震災で、妻と、9歳、7歳の男児、家工場すべて灰にした。
徳次は新天地、大阪市西田辺に家を借りた。ここで万年筆の付属具、クリップ、歯科治療の金属材、時計の部品などをつくり始めた。そして、ある日、ラジオ放送開始のニュースを耳にする。すぐ研究を始め、電気も真空管も使わず、方鉛鉱などで電波を聞き分ける鉱石ラジオ受信機を開発した」

わたしは、シャープ発祥の地である江東区新大橋(地下鉄森下駅近く)を何度も訪ねたことがあります。いまでもこの一帯は小さな家や会社が立ち並んでいます。わたしの霊感に頼って、歩きましたが、結局分りませんでした。森下には、わたしが世界一美味しいという焼き鳥やさんがあります。シャープの発祥の地を探しがてら、この焼き鳥屋さんを探してください。〈大好き〉といいます。

ここで、何を言いたかったかと言いますと、創業者の早川徳次さんの気持ちになれば、今の困難などたいしたことはないと思います。関東大震災で愛する家族も資産も工場もなくしてしまったのです。
 早川徳次氏と松下幸之助氏の比較年表を作ったことがあります。
生年は、早川徳次氏が1893113日。松下幸之助氏が18941127日。早川氏が1年お兄さんです。事業を始めたのが、早川氏が1912年。松下氏が1917年。この段階では、相当に差をつけていました。それが、関東大震災です。関西にいて無傷の松下氏がリードする形になりました。

この関東大震災で被災を受けたときの早川徳次氏の失意はいかばかりだったでしょう。このことを思い起こせば、今の状態など、まだまだいけます。社員全員がその気になれば、必ず立ち直れます。是非、奮起一番頑張ってほしいものです。

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