2011年1月30日日曜日

班田収授法の実際(3)

 班田収授のしかたが、これまでに書いてきたとおりであるとするならば、1回目の造籍開始直前に生まれた運のよい子でも、数え年でいうと、10歳の春から自分の田を耕すことになり、造籍開始直後に生まれたような運の悪い子は、数え年16歳の春を迎えないとだめだということになります。しかもこれは8世紀のほぼ前半までで、なかば近くからは校田が二冬にわたるようになり、造籍から班田までは満3年となってしまったのです。

 口分田をどこにくれるかという問題もあります。田令では、できるだけ、その百姓の家の近くに口分田を与えよ、となっていますが、725(神亀2)年には志摩国の百姓にたいする口分田を、隣国伊勢や、海のかなたの尾張国で班給している例もあります。

 766(天平神護2)年ころ、越前国坂井郡の百姓たちのなかには、口分田と自宅との距離が直線距離で7~10キロにおよぶものが少なくなかったとあり、ひどいばあいには海を渡って敦賀郡に班給されていたものがあるといいます。当時の人も大変だったようです。口分田をもらうと租庸調を納めねばなりません。いつの世も最下層のひとたちにしわ寄せがいきます。

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