2011年1月5日水曜日

平城遷都1300年物語(11)

遣唐使(7)~阿倍仲麻呂(4)
 清河や仲麻呂の消息は、渤海の使節によって日本に伝えられました。渤海の使節は藤原清河の書簡を携えていました。これにより、行方知れずになり、おそらく死んだものと考えられていた清河が唐に戻っている事実を朝廷は把握しました。
 藤原仲麻呂と光明太皇はこの事実を知って、大いに喜びました。急遽、藤原氏のホープを迎えるため、朝廷は高元度を迎入唐大使とする使節団を編制し、渤海使楊承慶の帰国に同伴させ、同国を経由して入唐させることにしました。
 遣唐使が日本海経由で入唐するのは、このときがはじめてでした。
 ちょうど唐は、安禄山の乱以後の争乱状態にあり、99人の使節が大挙して唐へ押しかけると、殺されてしまう危険もあると考え、人員をリーダーの高元度をはじめとする11名に縮小して、渤海賀正使楊承慶に随行して入唐させました。
 だが、時の粛宗皇帝は「河清は唐の貴族であり、私の寵愛している者である。まだ戦乱がおさまっておらず、彼を帰国させる時期ではない」と高の要求を拒絶しました。「河清」とは藤原清河のことで、清河は唐に戻った後、名を中国風に改め、唐の官僚として活躍していたのです。
 清河を帰国させてほしいと願うと、「まずはお前が先に帰国するがよい。なお、戦乱のために武器が多く失われてしまった。次に使節をよこす際、弓をつくるための牛の角を贈ってほしい」と逆に依頼される始末でした。
 このため、高元度は使命を果たせないまま、日本へ帰国しました。
 天平宝字5(761)年8月、高元度は平城京に戻り、すべての顛末を報告しました。このとき光明皇太后と清河の実母は、すでにこの世の人ではありませんでした。

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