2011年1月23日日曜日

防人と母(2)

武蔵国多摩郡鴨里の吉志火麻呂は、母は日下部真刀自といいました。聖武朝に防人に選ばれ故郷を発つことになりましたが、妻は家にのこり、母が火麻呂の身の周りの世話をするために西国まで同行しました。

筑紫にあって防人としての勤務をつづけているうちに、火麻呂は妻にあいたくてたまらなくなりました。思いついたかれは、母が死ぬと喪のため1年間の休暇がでるという規定でした。母は信心深い人だったので、火麻呂はいいました。

「東方の山の中の寺で、7日間、法華経を講義する会が開かれます。母刀自も聞きに行かれませんか」

母は湯で身を洗い清めて、息子に同行しました。山のなかにいると、突然ふりかえった息子は、牛のような目つきで母をにらみすえた。

「汝、地にひざまずけ」

「そんなめつきをして。おまえ、鬼に狂ったのかえ」

息子は横刀を拔きました。母は子の前に跪きました。

「木を植えるのは、実をとり木陰に休らうため、子を養うのは、生きなくてはと力づけられ、また子にも養われるためです。頼みにした木陰に雨がもるように、どうしておまえに異心がわいたのだろう」

しかし子は聞き入れようとはしませんでした。母は着ていた衣類をぬぎ、三つに分けて遺言しました。

「いいかい、一つは長男のおまえの分、一つは国もとの次男の分、もう一つは末っ子に私の形見としてやっておくれ」

不孝息子が進みでて、母の首を斬ろうと刀をふりあげたそのとき、足もとの大地が裂けました。母は裂け目に落ち込む息子の髪をつかみ、必死になって、天をあおいで泣きながら叫びました。

「息子はものに狂っておりました。正気でしたのではございません。どうかお許しください」

しかし髪を母の手にのこして、息子は無限の底へ落ちていきました。母は髪を故郷に持って帰り、筥に納めて仏像の前にそなえ、手あつく法事をいとなんだといいます。

「日本霊異記」に書かれている話です。

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