2010年11月15日月曜日

「しいほるとの娘」が生きた時代(2)

 さて、ふぉん・しーぼるとの娘に戻ります。長いですが、引用します。
「私は『ふぉん・しいほるとの娘』という小説を書きましたが、イネという女性、この人は、シーボルトと長崎の遊女の其扇という女性の間に生まれた娘ですが、そのイネは(宇和島の)卯之町にいた。イネは、師匠の二宮敬作、これはシーボルトの高弟ですが、この二宮敬作のいる卯之町から宇和島まで歩いていく。そして宇和島にいた村田蔵六からオランダ語を習っていた。毎日朝早く起きまして、山道をたどり、そして夕方になると卯之町に帰ってくる。

 イネは明治になってから東京で死ぬのですけれども、その原因は鰻の浦焼とスイカの食べ合わせが悪くて死んだのです。イネも父のシーボルトと同じように、鰻の浦焼が好きだったということがわかるわけです。

 イネは上の名前を失本といいまして、失本イネと書いていました。「失本」というのは「シーボルト」を日本流に書いたわけです。宇和島藩の伊達宗城は、「本を失うというのは縁起が悪いじゃないか、あんたの先祖は誰だ」と言ったところが、よくある話ですけれども、「楠木正成の子孫だと言われています」というので、「それでは楠という字を取って、楠本にしろ。それからイネというのも伊篤としろ」と、伊達宗城の「伊」の字をあたえたわけです。

 イネの娘にタダという女の子がいました。イネは産婦人科を学ぶため、岡山の石井宗謙という、シーボルトの門人だった男のところへ行きます。そこでイネは石井宗謙に手ごめにあって女の子が生まれますが、イネは産科の術も覚えておりましたので、自分で臍の緒を切ってこの子をとりあげた。非常に悲劇的な出産であったわけです。イネは自分の娘に名前をつけるときに、何の愛情も持たない男に手ごめにされて一人の娘を産んでしまった、なんにも愛情がない、というわけで「タダ」とつけたのです。

 しかし、伊達宗城が「タダというのはまずいから、タカにせよ」。そういうふうに、非常に心配リといいますか、優しさがあった。タカはその後、伊達宗城の侍女として養われた。そのような心の温かさが藩主にありました」と締めくくっています。当時の宇和島藩主・伊達宗城は、幕末の4賢公の一人として、大きな影響力を持っていました。これまでに述べましたように優しさも持ち合わせていたようです。幕末には、偉人英雄がキラ星のごとく生まれたようです。今は、まったくの不作です。ため息が出るばかりです。

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