2010年12月14日火曜日

平成遷都1300年物語(7)

遣唐使(3)
 その後、777年、779年(送唐客使)、804年にそれぞれ遣唐使が派遣されています。特に804年の遣唐使では、空海や最澄、橘逸勢らが帰朝しています。

 後期は、遣唐使は文化使節的なイメージが強いと言えるでしょう。日本から派遣された遣唐使は、唐にとってはあくまで朝貢使でした。遣唐使には日本から唐の皇帝へ朝貢品を献上し、唐との外交関係を結ぶという政治的な役割が最後までありました。唐の法典や制度、文化、文物の輸入は副次的なものでした。

 奈良時代における遣唐使の構成ですが、おおむね大使(長官)1名に副使(次官)が1名、ないし2名でした。遣唐使一行の数だが、奈良時代には4隻合わせるとおよそ500~600人ちかくにも膨れあがっていました。その別名を「よつのふね」といいましたが、これは、遣唐使一行が四隻の船団を組んで渡海したからです。

 それでは、どのような手順で遣唐使は出立したのでしょうか。
まずは、遣唐使一行の無事帰還を祈って、奈良の春日山の麓において大規模な祭祀が催されました。続いて遣唐使一行は、平城宮の朝堂院で出発の儀式を行い、その後、大使や副使らは紫宸殿に赴いて節刀授与の儀に臨みました。これは遣唐大使に天皇が刀を授ける式典である。

 刀を受け取ることは、大使が天皇から大権(天皇の強大な権限)を移譲されたことを意味し、唐との外交交渉や公務中における部下の賞罰を自由におこなうことができるようになるのです。
 この儀式が終了すると、大使や副使に対して朝廷では盛大な出発の宴を開きました。

 この酒宴を終えると、いよいよ遣唐使一行は、隊列を組んで平城京を出立し、難波律(大阪の港)へと向いました。

 難波律では、安芸国(広島県)などで造られた船の進水式を住吉社において挙行しました。
この式典が済むと、またも宴会です。かくして遣唐使たちは、4隻の船に分乗し、難波律から出帆し、瀬戸内海を通り、博多湾でしばし滞在した後、五島列島の値嘉島に寄港し、その後一気に東シナ海を突っ切って大陸へ向かいました。

 当時の航海ですが、遣唐使船はかなり頑丈に造られていて、船が海の藻屑となった記録は意外に少ないものです。ただ、季節風に関する知識が乏しかったようで、復路において漂流したり大陸に吹き戻されてしまったりするケースが頻発しました。不運な人々は、未開地に漂着して現地人に殺されたり、異郷の地で没することになりました。

 それでも、遣唐使船に乗り、大陸を往復するというのは、現代と比較にならぬほど危険な行為であり、非常に勇気のいることでした。それでも多くの若者が自ら志願して危険を顧みずに唐へ旅立っていったのは、もし戻って来れれば、その後の出世が約束されていたからでしょうか。

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