2010年10月10日日曜日

尖閣諸島の領有権(2)

尖閣諸島の歴史

 尖閣諸島は、欧米諸国が通商の目的で来島した軍艦が作成した海図などには記載されていましたが、いずれの国にも属さない地域として国際法上の主権者のいない島でした。

  明治維新後は、明治51872)年に琉球王朝が琉球藩となり、明治7(1874)年には内務省の直轄となりました。明治12(1879)年に琉球藩が廃止されて沖縄県となり、明治18(1885)年に沖縄県知事が実態調査を行い、尖閣諸島に国標を建立するために内務省に上申書を提出しました。すると、内務省は「沖縄県が実態調査を行った上で国標を建立することは差し支えない」との見解を出しました。当時、内務省も尖閣諸島は、どこの国からも領土主権を主張されていない島々であると考えていたのです。

 日本政府は、この明治18年以降は、しばしば沖縄県を通じて、尖閣諸島の実態調査を行いました。その上で「この諸島は、清国に所属する証拠はない」と判断した結果、明治28(1895)年に先占論によって日本の領土であることを閣議決定しました。そのとき以来、尖閣諸島は日本の領土となったのです。

 そして明治17年に尖閣諸島に調査団を派遣した福岡の古賀辰四郎氏が、明治18年から2度にわたって魚釣島など4島の「借用願」を申請していましたが、10年後の明治29年に、ようやく同諸島の大正島(国有地)を除いた4島を30年間無償貸与される許可を受けることができました。

 古賀辰四郎氏は大規模な資産を投じて、尖閣諸島の開拓に着手しました。明治42(1909)年には、これらの功によって日本政府から「藍綬褒章」が授与されました。その後、島の開拓は、古賀辰四郎氏の子息である古賀善次氏が引き継ぎ、全盛期には200人を超える人たちが魚釣島に居住してカツオブシなどの加工に従事しました。

 大正15(1926)年に30年間の無料貸与期間が終了したことにともない、以後1年契約の有料賃与に改めましたが、昭和7(1932)年3月31日、日本政府は、古賀氏に尖閣諸島の中の四島を有料で払い下げました。しかし、これも第二次世界大戦直前には、船舶燃料が配給制になったために渡島ができなくなり、これらの事業は、廃止せざるを得なくなりました。

国連海洋調査団の調査報告

 それから、しばらくは尖閣諸島は忘れ去られていました。ところが、昭和43(1968)年に国連の海洋調査団が、この海域の海底調査を行った結果、昭和44(1969)年に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって、この海域に膨大な海底資源が眠っていることが明かにされました。このことから、一躍脚光をあびるようになりました。約40年前からです。この間、日本政府は何をやっていたのでしょう。

 この国連の海洋調査団の調査結果には台湾、中国だけでなく、日本も当然のことながら大きな関心をよせました。そして、昭和44年と45年の2度にわたって、日本政府は東海大学に委託して、尖閣諸島周辺海域の海底調査を行わせました。すると、海底に石油の根源石である海成新第三紀堆積層が、尖閣諸島を中心に20万キロ広がっており、その層厚が3000メートル以上に及んでいることが分かりました。これが、領土紛争の発端となりました。

日本政府の欠点は、こうなったらこうするという手が打てないことです。想定される問題を常に考えて、その時には、どうするという対策案が出来ていないといけません。答えのある問題しか解けない偏差値官僚の欠点が常に国益を危うくします。これは、現在に至っては、さらに顕著になっています。(明日に続く)

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