2012年1月4日水曜日

佐野眞一の津波と原発(38)

 岩本と一緒に双相地方原発反対同盟の活動をやっていた石丸小四郎に、出身地の秋田市内のマンションで会った。

  私を原発問題に最初に引きこんだのは、岩本さんでした。

岩本さんは私が勤める郵便局によく来て、『原発は広島や長崎に投じられたのと同じ核だんべ。平和利用というが、とうてい共存できねぇ』と言うんです。非常に情熱的な話しぶりだった。私もそうだと思って、反原発運動に身を投じるようになったんです。

「岩本さんは反原発の町長だと国や県からかなりいじめられた。おまけに、岩本さんの前に町長の田中さんが厖大な借金をつくっていた。そんな逆風の中で、岩本さんは何とか人心をつなぎとめようと、第一原発への通用道路を整備したりもした。東電はそれに30億円寄付で、町の赤字がまた脹らんだ。これが第一原発発七、八号機増設の容認の動きにつながるのです。

七、八号機の増設問題を問われて、「もし町民がそれを望むならば、増設運動を繰り広げてきたい」と言ったため、マスコミは反対派から推進派へ“転向”と書き立てた。当時、東北電力が計画中だった浪江・小高の原発建設予定地の一坪地主もやめた。

「一坪地主をやめたと聞いたときは、本当かと思いましたよ。くやしくてならなかった。以来、まったく口をきいたことがありません。

1979年スリーマイル島の事故がありました。その直後に県議選があり、反原発の神風が吹いて絶対当選確実といわれていたのに、落選してしまった。そのへんから、潜在的には原発反対では政治家としての限界、上がり目がないと思っていたんじゃないかな」

岩本本人を訪ねたときは、腎不全で一日おきに人工透析を受けている病院から帰宅し、ベットでいる状態だった。

避難する車の中で『とんでもない事故だ。東電が昔言っていたことと全然違うじゃないか』と、怒っていたんです。

『東電も国もずっと原発は安全だと言い続けてきた。それを私も信じて町政をやってきた。

 福島第一原発の反対派から推進派に“転向”し、取り返しのつかない原発事故に遭遇したあげく、病の身を養う安住の地を求めて福島各地をさすらう。この元町長の胸にはいまどんな思いが去来しているだろうか。

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