2015年5月12日火曜日

十八史略(43)-伍子胥と呉越戦争(4)

 建は亡命生活に疲れて、心も病んでいた。ちょっとしたことにも怒りっぽくなっていた。

建は楚を出奔したときから、従者をひとり連れていた。奴隷である。当時、奴隷は人間とみなされなかった。

だから、建と鄭国の不満分子と謀反の協議をするときに、従者の存在を気にしなかった。従者は建の謀反計画をすべて知っていた。

 あるとき、従者はできものが出来て苦しんでいた。主の後について歩いていた。道端の石に躓いて前のめりになった拍子にあるじの体に触れた。

建は、押されたと思い、

「おのれ、わたしを突き飛ばしたな」

と言い、鞭を振り上げた。

当時、従者は、なにかしくじったときは、跪いて鞭を受けたものである。

だが、従者は、このとき、背中のできもののことを考えた。ただでさえ、傷むのに、そのうえ、鞭で叩かれると、その痛みが脳裏を走った。

建は「なぜ跪かぬ」と怒鳴った。恐ろしい形相である。

従者は、あるじの顔に殺意を感じ、背を向けて、一目散に駆け出した。

建は抜刀して従者のあとを追った。しかし、とても適わないので、追うのを諦めた。

奴隷は品物と同じであったので、従者が誰かに拾われると、拾った人は泥棒と同じになる。したがって、この従者には誰も手を出さない。もとの所有者のところに帰るしか手がないのである。建もすぐに帰ってくるだろうと甘く考えていた。

従者は、

――帰れば殺される――と思い、いろいろ考えた。

従者は、あるじの謀反計画を思い出した。その足で、役所に出向いた。

「おそれながら、わがあるじの建は、謀反を企てております」と、訴え出たのである。

 当時の鄭には、公孫僑という名宰相がいた。字を子産といい、この字で知られている。

「どうする?子産」

と、鄭の定公は宰相の子産に訊ねた。

「迷うことはないでしょう。謀反の罪を許していては、国が傾きます。早く殺してしまいましょう」

と、子産は答えた。

「あの男、わたしの好意を無にしおって」

定公も裏切られた悔しさで、ただちに建を逮捕させ、首を刎ねさせた。

このとき、伍子胥は建の子の勝(しょう)を連れて鄭国を脱出した。

次にめざすは、呉の国である。

 

2015年5月11日月曜日

十八史略(42)-伍子胥と呉越戦争(3)

伍子胥像
 伍子胥は建の亡命先である宋に向かい、伍尚は楚の都の郢に行った。郢は現在の湖北省江陵県にあたる。楚の平王は約束に背いて、伍奢と伍尚の父子を処刑した。

伍子胥は逃げたと聞いた伍奢は

「楚の国の君臣は、これから兵火に苦しむことになろう」と言った。

かれは息子の怒りの恐ろしさと行動力の物凄さを知っていたのである。復讐の鬼になるであろうと予測していた。

前にも書いたが、宋は殷の遺民の国で、襄公のときは国力も強かったが、あの栄光の襄公の死から115年も経っていた。伍子胥らが、亡命したときの国主は元公であり、政治も不安定で、重臣の華向がクーデターを起こした。

伍子胥は建とともに隣国の鄭国に逃げた。鄭国は定公の治世で、亡命者に対してたいそう親切であった。

建は居心地がいいものだから、そのまま留まりたかった。

「だめですぞ。鄭は小国ですから、われわれに貸す兵はおりません」

伍子胥は尻を押して、鄭の国を出て、晋国に入った。晋は覇者文公を出した国で、中原に重きをなしていた。当主の頃(けい)公もなかなかの野心家であった。

その頃公が、建を呼んで

「あなたを鄭の主にしてあげよう」と、切り出した。

「?」

建は理解できなかった。鄭の主は建に優しかった定公である。

「あなたは大国楚を継ぐべき身でありながら、悪人どもに図られ、邪魔され、今のように放浪の身である。気の毒である。だから、小国ではあるが、一国の主にしてあげたい。それが、鄭であるが、どうだ?」

「と、言いましても、鄭には定公というれっきとした主がおります」

「聞くところによると、定公はあんたに大層親切であったらしいな。あんたを信じきっていたという噂だが、鄭にもう一度行ってくれぬか。わたしは、外から鄭を攻める。あなたは、鄭の内から呼応する。あっさり国はとれるであろう。国はあなたがとればいい。わたしとしては、南隣に親晋国家ができればよい」

建は、亡命生活に飽きてきていた。安定した地位がほしい。

暖かくもてなしてくれた鄭の定公を裏切るのは心苦しいが、我が身もかわいい。

つい、「やってみましょう」と答えてしまった。